ぶつぶつ・・・。 第157話 弁慶岬
ジャンルわけなんてできないですね。「ぶつぶつ」ですから・・・。
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No,1719

第157話 弁慶岬

弁慶岬 撮影場所~寿都町政泊町の観光用スペース
20100501491.jpg 20100501492.jpg
 愛里さんに教わった技を使ってみましたよ。左の写真は有名な岬によくある立て看板。でも、たいていその看板を入れて撮影すると岬が写らないんですよね。見えないモンだから海岸近くまで行って見下ろして撮影したのが右側の写真。名前は立派だけど、岬そのものは岩礁の部類に入る感じのパッとしないものでした。まぁ、今立っている土地すべて合わせて『弁慶岬』なんでしょうけどね。
 で、なんで北海道のこんなところで『弁慶』なんだ?って話ですが、弁慶って言ったらアレですよね、義経です。義経伝説のついでかなんかなんでしょうね。なんでも
 800年ほど前、常陸坊念西(ひたちぼうねんさい~伊佐、もしくは中村の姓を名乗っていたが、1189年奥州合戦の石那坂の戦いで勲功を上げ、源頼朝から現在の福島県西部にあたる伊達郡をもらいうけ住み着く。以来、伊達の姓を名乗ったので、伊達家初代当主伊達朝宗と同一人物であるとか、2代当主となった中村宗村と同一人物であるとか、はてまた3人とも同一人物だとか、要は昔のことで伊達家や中村家、伊佐家それぞれで色々伝わっているものだからよくわからない、そんな人物。)からたくさんの食料と船を得て、ここ寿都に運ばせた。弁慶は毎日岬に立ってそれを待ったことから弁慶岬と名付けられた。
 ってな具合の話が書かれた木の札が落ちてました。
20100501493.jpg
 もとはなんかにくくりつけられていたモノが落ちたんでしょうか?とにかく地面にありましたよ。しかし、奥州合戦ってのはそもそも源頼朝が、義経をかくまった藤原のなんとかってのを討つのが目的だったと思うんですが、そこで頼朝側にいた念西から、どうして義経が多くの物資を『得た』のか?あるいはそのとき運ばせただけで本人は来てない感じの書かれ方なんですが、弁慶は一人でここで何をしてたのか?などなど、色々疑問は出てきたんですが、これ以上調べるとまた、長くなっちゃうんでねぇ。時間かけて調べて、そんで専門家に突っ込まれるのがオチなのであと知りたい人は自分で調べてください。たぶん、普通の歴史書じゃダメだと思います。正式な歴史としては、義経は北海道に来てないとなっていますからね。
20100501494.jpg
 弁慶・・・なんかあんまり暖かそうな格好、してませんね。



 そうそう、岬巡りの記事アップが遅れているモンだからほとんど無視して来ましたが、
20100501495.jpg
きちんと道の駅も寄って撮影もしてます。撮影して・・・・・記事に使わず削除しちゃってるんですけどね。
【2010/12/27 05:24】 岬巡りの旅 日本海沿岸編 | トラックバック(0) |
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